河原町の歴史

 東へ、そして南へ。南材木町を過ぎた奥州街道は、河原町[A-3]に入ったところで2度曲がる。河原町は市域の境であり、川向こうは茂ヶ崎町村町、東には七郷村が迫っていた。

 河原町の北側で青く塗られているのは、青物市場[A-3]。江戸時代、近くの南五十人町、六十人町[A・B-1]に暮らした足軽たちが、生活の足しに庭で育てた野菜を売りにきたのが、そもそもの初めらしい。農家の人々は市場に野菜を下ろすと、食料品や農具、衣料品などの買い物をした。通りには店や問屋が軒を連ね、馬車や荷車がつながって大にぎわいを見せた。地図に針生権[B-3]とあるのは、江戸時代、町の端に立っていた丁切とよばれた木戸を開け閉めした針生権五郎宅だろうか。

 八軒小路[A-2]のいわれは、家が八件しかなかったからだという。のどかな田畑の中を、六郷堀が流れていく。七郷堀沿いには江戸時代から染物屋が並び、堀で染め物を流す風景は長く風物詩でもあった。両岸に大きな干し場を持っていたのは、北海道まで販路を開拓した青山染工場[A-2]。荘司染工場[A-2]は、いまもこの場所に事務所を置く。

 水に恵まれた一帯は、広瀬川が氾濫するたび大被害を被った。町名の由来にもなった行人塚[C-3]は、川の氾濫をしずめるために人柱となった行人を祀ったもの。いま、上には古城神社が建てられている。


出典:有限会社イー・ピー 風の時編集部「100年前の仙台を歩くー仙台地図さんぽ」より