商店街からのお知らせ
日本から寿司屋が消えた日??
ホームページの週替り更新が始まり、今週で2ヶ月が過ぎました。
それぞれ個性ある店主やメンバーによる投稿も今週から二回り目を迎えます。
振り出しに戻り、今週担当は末廣寿司の高橋です。
私は特に毎度の内容を決めず、その時その時で好きな事を書かせて頂きますのでお付き合い頂ければと思います。
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日本からお寿司屋さんが消えた日。
にわかには信じられない出来事がその昔ありました。
それは戦後直後のことです。
時は1947年、日本がGHQ支配下の中、食料不足などの影響で米などは配給制が強いられておりました。
また外食券という外食するための券も配給制であり、それを利用できる食堂(旅館も)以外は営業停止になる措置が下されました。
寿司屋はまさに外食券利用対象外のお店であり営業停止措置を受けた為、寿司屋は日本から一度すべて消えてしまいました。
しかし当時の寿司屋の主人達は、日本の食文化の一つであり歴史もある寿司の文化を絶やすわけにはいかないと、色々な方法を検討しました。
その中で生まれたアイディアが「委託加工」というものです。
「委託加工」とは、配給された米一合を寿司屋に持っていくと、その米を寿司に加工してくれる(厳密にいえば先にシャリを炊いて準備をしていました)というものです。
そこで握ってもらえた寿司が米一合につき10貫(お店などによってはにぎり7貫と巻物1本等様々)であり、それが今の寿司一人前の原型になりました。
(ちょうどこの寿司一人前の話は「NHK チコちゃんに叱られる!」で出ておりました!そこでは一人前は10貫と言われてたようです)
当時のお寿司は、戦後の為今のようにマグロなどの海産物はほとんど出回っていない状況でしたので、鱒や鮒などの川魚や時には練り物(蒲鉾)を握ったりしたとの記述も残っております。また巻物も然りで、海産物や干瓢などは手に入りづらく、農作物として比較的安価に(もしくは近くの畑から等)手に入る胡瓜を巻いたカッパ巻が誕生したのもこの時期だそうです。
このように寿司屋さんは一度消えてから、寿司職人の魂とアイディアで消滅の危機を脱し、寿司屋の存続へとなんとか落ち着いたのですが、実はこの事が影響して今のお寿司の形が出来上がったという側面もあります。
江戸時代から進化を重ねてきた寿司ですが、にぎりの形状は今とは異なり、シャリの大きさは今の2〜3倍で小さなおにぎりサイズの上にネタが乗っているというものでした。
しかし件の理由により、米を多く使うことは出来ないためその事が影響してシャリは小さく握るようになり、皮肉にも今のにぎりのサイズになった訳です。
ちなみにお寿司屋さんで二貫一緒に同じネタのにぎりを出すのは、この昔のにぎりのサイズが大きい為半分に切って提供した名残りという説もあります。
「末廣寿司」が誕生したのはまさにこの戦後で「委託加工」の時であり、宮城県の石越出身の曽祖父が兄と東京は亀井戸の寿司屋で働いていたところ空襲で焼け出され、兄は千葉の幕張、曽祖父は仙台に疎開して寿司屋を開店をしたのが始まりです。
今年で創業75年。コロナに負けず何とか営業を続けて参ります👍
末廣寿司 高橋理武